湯島(談合島)天草の旅 パート3

天草の旅2日目にせっかくの機会なので湯島に行ってきました。
上天草大矢野江樋戸(えびと)港から約20分の船旅で、乗船客は私たち2人を含めても4人だけでした。
もっぱら、生活用品の荷物が客室を占拠し、ぱぴー・すず音はその荷物の上に乗っての船旅です。

 せっかくですので、歴史ある湯島のことを紹介します。湯島は有明海の穏やかな海に浮かぶ島で談合島
ともいわれています。面積は0.52kmで、周囲6.5kmで、人口419人です

 湯島はお椀を伏せたような台形で弓を横にした形を連想し“弓島”と呼び、いつの間にかそれが“湯島”となったそうです。そして史上最大のキリシタン一揆「天草・島原の乱」の作戦が練られたのがこの島で、「談合島」と呼ばれるようになったそうです

 解説すると・・・天草・島原の乱は寛永14年10月25日(1637年12月11日)に島原の有馬村で勃発し重税と過酷とも言える取り立て、そしてキリシタン弾圧、さらに凶作が重なって、島原・天草の領民の間に燻っていた火種が一気に燃え上がり、過去に類を見ない大規模なキリシタン一揆として爆発したのでした。
 そして湯島戦術が練られた僅か16歳の天草四郎を総大将に据え、一揆軍は次々に勢力を増し快進撃を続けたものの、次第に数を増す制圧軍に迫られ撤退を余儀なくされます。そして天草にいた一揆軍も海を渡り、かつて有馬氏の居城だった原城(現南島原市南有馬)に集結、篭城を始めました。原城を取り囲む制圧軍の数は12万にも膨れ上がり、食料も弾薬も尽き始めたのを見計らって総攻撃を開始、原城は落城しました。一揆が勃発してからおよそ4ヶ月後の寛永15年2月28日(1638年4月12日)、一揆に加担したキリシタン及び領民、およそ3万7,000人のほとんどが殺され、一揆軍は全滅して反乱は終結します。その後暫くは島原も天草も人影が途絶えたと言われるほど壮絶なものでした。
 そんな惨劇を目の当たりにした湯島も、今は周囲に釣り船が浮かぶ平和な島、そして亜熱帯植物のアコウ樹が茂る温暖な島です。頂上には公園があり「談合島の碑」が建てられています。特産品はワカメ、サザエやアワビ等の魚介類。また甘みのある湯島大根が有名です。


 長々と説明しましたが、歴史を知って欲しくて書き込みしました。説明はこれくらいにして。

 島に到着し、峠の公園を訪ねると、車で島を案内してくれると親切な人と遭遇し言葉に甘えることにしました。
先輩を助手席に、私とわんちゃん2匹は荷台の上です。

**いざ恵トラックに乗って島出発です**
2012.3.10天草後半 029

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**談合の記念碑の前について**
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**遠くには島原の普賢岳や西有家が見える**
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 **クレソン畑にはつくしが**
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**お土産に八朔とクレソンをいただき**

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港に戻ってきました。見ず知らない私たちにありがとうございました。今度は夏ごろまた行きたいなと思いながら天草の旅を終えてきました。

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すず音パパ

Author:すず音パパ
2017年3月14日、ぱぴー10才70日で虹の橋を渡っていきました。これからすず音7才と一緒にぱぴーの分まで長生きして楽しく日々暮らしていきます。

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